州羽社由緒記
 
 重苦しい空気を振り払うように建御名方が笑った。
「とにかく、本当にありがとうな。俺、そろそろ行――痛痛痛ッ!!!」
 軽く伸びをしようとした瞬間顔色が激変した。不用意に身体を動かしたせいだ。悶絶する建御名方に八坂は慌てて駆け寄る。
「大丈夫ですか!? しばらくは安静にしていないと――」
「いや……でも、これ以上世話になるわけには……」
「駄目です! 私のことは気にしないで下さい。今はご自身を労わって下さい!」
 なおも渋る建御名方だったが、傷だらけの身体は彼の意思を尊重してはくれなかった。ここを出ていくどころか立ち上がることすらできず、そのまま褥に突っ伏してしまう。
「……そろそろ、布を取り換えましょう。じっとしていて下さい」
 建御名方の了承を取り付け、布に手を伸ばす。するするとほどければいいのだが、そういうわけにはいかなかった。傷口に貼りついてしまった包帯を、ゆっくり丁寧に剥がしていく。
「痛っ」
「も……申し訳ございません」
「いや、比売のせいじゃないから」
 焦って手を止める八坂に対し、引きつった笑みでかぶりを振る。
 傷痕は出血こそ治まっているものの、まだ生々しかった。太刀傷と思しき大きな傷が背中を一閃し、その他細かい傷が身体中に広がっている。腕にも幾らか斬られた痕があり、それ以外にも酷い火傷が沢山見られた。
 凄惨な有様だった。
 助かったのは軍神である建御名方の自己治癒力の賜物だろう。そうでなくとも、あのまま誰にも気づかれずに雨に打たれていたならば、或いは。
 息を呑んだのが気配で伝わったのだろう。建御名方は困ったような笑顔で振り返った。
「ごめんな。気味の悪いもの見せて」
「いいえ……これはその、建御雷という方が全て?」
「ああ。まあ、森に墜落したときについた傷もあるけど、大体は」
 ふー、と長い息を吐き出す。
「……建御雷は、天之尾羽張神(あめのおはばりのかみ)の息子で、親子ともども剣を司る神なんだ。背中にでっかい傷があるだろう?」
「はい……」
「それ、多分墜落する直前にやられた奴だ。どうにか奴の間合いに入らないよう避けていたんだけど、そうなると今度は雷を落としてくるし」
「雷!?」
 八坂はぎょっとした。しかしすぐに納得する。建御名方の全身に及んでいる火傷の痕。これは、雷に打たれたためにできたものなのだ。
 そういえば、あのときもやけに雷が近かった。あれは、単純な天候の問題ではなく、建御雷が攻撃していたことによるものだったのだろう。
 反射的に耳をそばだてると、絶え間ない雨音に交じって雷鳴が聞こえた。あれも、建御雷の力によるものなのだろうか。
「俺も剣を扱わないわけじゃないけど、建御雷と比べるとどうしても劣るし、どちらかと言えば殴ったり蹴ったりの方が得意で――って、こんな話に興味はないよな」
「あの、建御名方様」
「ん?」
「もしも建御雷様にここのことを気づかれたら、危ないのではないでしょうか?」
 不安に駆られる八坂だったが、建御名方は拍子抜けするほど軽い調子で返した。
「いや、それは大丈夫。そもそも、建御雷なら既に俺がここにいることは察知しているだろうし」
「ええ!?」
 さらりと何でもないことのように言われ、八坂はぎょっとした。その表情に焦燥と恐怖の色が交じったのを見て、建御名方は正面から八坂に向き直った。身振りで制止する。
「心配要らないって。あいつも、無関係の神がいるところに奇襲をかけるような奴じゃない」
「そう……なのでしょうか」
「まあ、敵には容赦ないけどな」
 剥き出しになった傷だらけの上半身を見下ろしながらにかっと笑う。流れでまじまじと建御名方の裸体を凝視し、今更ながら頬に血潮が昇ってくるのを感じた。目を逸らす口実に傍らの手拭いに手を伸ばす。
「あの……汚れをお拭きしますから、しみるでしょうがご辛抱下さいね」
 たらいに浸し、力一杯に絞る。肌にこびりついた血液を落としていく。時折建御名方の眉が引きつったが、今度は声を上げることはなかった。
 傷口を清潔にし、再び布を巻きつけ始める。本当は薬草で治療した方がいいのだが、あいにく手元に用意がなかった。この雨が止んだら採りに出かけよう、と心に決める。
 無言のときを、建御名方は身の置き場がなさそうに過ごしていた。先ほどのやり取りが蘇ってきたのかも知れない。
 天津神に刃向かうことを是とする建御名方の考えは、確かに八坂には受け入れがたいものだ。しかし、建御名方が悪者だとも思えないし、満身創痍の怪我人を心配する気持ちの方が強い。でも、わざわざ私は貴方の味方ですと宣言するのは、保留にすると決めた論争を蒸し返すことにもなりそうで――八坂は献身的に接することでその言葉の代わりにしようと密かに胸に刻んだのであった。
 

《次》

 

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