州羽社由緒記
 
「……そのうち傷に効く薬草を採りに出かけたかったのですけれど、期を逃してしまいました」
 この雨では野山は水浸しで、薬草も駄目になっているかも知れない。八坂は眉を曇らせた。
 その顔色を読んだ建御名方が尋ねてくる。
「……心配か?」
 その問いが、建御名方の傷についてのものか、気象についてのものなのか、一瞬図りかねた。しかし、八坂の気持ちは条件反射のように滑り落ちる。
「そう、ですね……。普段なら暑すぎるくらい暑い日が続いてもおかしくないのに、こうも雨ばかりでは……作物の実りにも影響するでしょうし」
 しかし、沈鬱な空気を振り払うかのように八坂は顔を上げた。
「建御名方様は、以前に州羽にいらしたことはありますか?」
「……いや、幼い頃は高志で暮らしていたけど、この辺りに来たのは今回が初めてだ」
 その返事に八坂の顔がほころんだ。
「州羽にも海があるのはご存知ですか? 出雲や高志にあるような、見渡す限りの広い海原ではありませんが……」
 真新しい装束をまとった建御名方は神妙な顔つきで聞いていた。無言で続きを促され、八坂は更に語りかける。
「州羽の海は向こう岸が容易に見えるほどの大きさですが、だからこそ、晴れた日の景色は、それは美しいのです。澄んだ水面に山々が映り込んで、まるで鏡みたいに」
 子供のときからずっと馴染んだ光景が蘇る。青々とした山。さざ波に煌めく水面。そこに揺らめく虚像の景色。
「冬になると、少しずつ水面が凍るんですよ。やがて全体が分厚い氷に包まれて、上を歩けるくらいになるんです」
「へえ……! そうなのか?」
「はい!」
 建御名方の表情から影のようなものが消えた。純粋な驚きに八坂はこくこくと頷く。
「いつか、晴れた日の州羽の海を、建御名方様に見て頂きたいです。美しい、この国の姿を……」
 柔らかな顔つきで呟く八坂に、またしても建御名方の表情が強ばった。逡巡するように俯き、数拍の間を置いたのち、押し殺した声を絞り出した。
「……ごめん」
「建御名方様?」
 不安そうに顔を覗き込む八坂の肩を掴み、遠ざける。
「俺の、せいなんだ。……俺がこの地から去らない限り、長雨は止まない」
 八坂の肩が震えた。その振動を直接感じた建御名方はいっそう苦そうな顔をし、彼女の肩から手を離す。
「どういう……ことですか」
 視線を床に落としたまま八坂は呟く。妙に淡々としたその声は、それだけに余計はっきりと響いた。
「……詳しい理屈は分からない。だが、この雨はずっと続いているんだ。俺と建御雷の戦いが始まってから」
 その台詞に呼応するかのように、遠くから雷鳴が聞こえる。その音は今もこの地にとどまっているという建御雷の存在を否が応にも実感させた。
「だから、この戦いが終わらない限り、長雨が止むことはない」
「でも! このままではこの地は滅んでしまいます!」
 八坂の叫びは切実だった。
 季節外れの雨。上がらない気温。雲に遮られて届かない陽射し。こんな不自然な状況が長引けばどうなるか。
 既に、この土地は疲弊しつつあるというのに。
「分かってる……出雲を、故郷を守るために余所の土地を犠牲にしてはならないって……。本当ならすぐにでも、俺はここを出て行かなきゃならない……」
 無理やり押し出された声に、握り締めた拳に八坂はハッとした。
「駄目です! そんな状態で外に出て、無事でいられるとお思いですか!?」
「でも、事情を知った以上、比売はこれ以上俺を匿えるのか?」
 州羽に災いをもたらした悪神を。
 八坂は答えられなかった。明確な否の気持ちが固まっているからではない。
 葦原中津国を譲り渡せとの天津神の命。父の築いた国を渡すわけにはいかないと否やを唱えた建御名方。そのひたむきな気持ちを肯定したいと思った八坂。でも、その私的な感情は自身の故郷に負担を強いるものだった。
 沈黙のなか、地面を叩く雨音だけが耳にこだまする。こちらをじっと見つめてくる建御名方に、八坂は押し黙ったまま立ち尽くしていた。目を逸らすことすら、できなかった。
 どれほど時が流れたであろう。八坂はふっと視線を下方にやった。そして、震える唇で答えを紡ぐ。
「……確かに私は、州羽を産土(うぶすな)とする国津神です。この地に害をもたらす者を受け入れることはできません」
 建御名方の表情が和らいだ。諦めの入り交じった笑顔であった。しかし、次の瞬間その表情を強張らせたのは、再び視線を上げた八坂の、強い光を宿した真摯なかんばせだった。
「そして、同時に私は、弥栄(いやさか)なる富を、幸いをもたらす女神です。満身創痍の方をそうと知りながら危険な所に放り出すことはできません」
 絶句する建御名方に、八坂はきっぱりと宣言した。
「お怪我が完治するまでは、この社におとどまり頂きます。そして、それが成されたときは――この地を去ることを、お願い申し上げます」
 言葉を紡ぎながら、八坂の心は正反対のことを考えていた。もっと彼の助けになりたい。一緒にいたい。彼女は、この、親想いで故郷を愛する軍神に惹かれ始めていた。
 これは、建御名方に対して与えられた猶予ではなく、八坂が想いを断ち切るために与えられた猶予なのだ。
 

《次》

 

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