州羽社由緒記
 
 小雨に混じり、ガラガラガラ……と無機質な音が聞こえてきた。
「雷……じゃないよな」
「鰐口(わにぐち)の音です。どなたかいらしたみたいですね」
 腰を浮かせた八坂はふっと顔を強張らせた。
「建御雷様、なんてことは……」
「ああ、それはないと思う。奴の気配はあの山の頂上から動いていない」
「あの山?」
 建御名方の視線を追った八坂は、その先に何があるのかを思い出し、顔を曇らせた。
「守屋山……」
 嫌な予感がした。八坂は身を翻し、訪問者の元に急いだ。拝殿の軒下に、見知った姿をみとめる。
「お父様……」
 八坂の父神・綿津見(わたつみ)であった。
「ここに、出雲の神が坐しているな」
 前置きもなく断定口調で問われた八坂は、数拍置いておずおずと首肯した。嘘をついて誤魔化せるものではない。
「お目通りを願えるか」
「お待ち下さい。……お伺いして参ります」
「比売、その必要はないよ」
 思いがけない台詞に振り返ると、柱にもたれかかった建御名方がいた。少しばかり息が上がっている。
「建御名方様! 休んでいて下さいとあれほど……!」
「いいから。……俺に、何かご用でしょうか」
 かすれ声の問いかけに、綿津見は一つ頷いた。娘に視線を投げかける。
「雨の中で問答することもなかろう。……上がらせて貰えるか」
 八坂は二人の男を代わる代わる見つめた。そして、うなだれるように首を縦に振った。
 
「綿津見と申します。そこにいる八坂刀売(やさかとめ)の父にございます」
「出雲の大国主命が第二子・建御名方です」
 向かい合って座った二人は互いに名乗り合った。八坂は迷った末、建御名方の斜め後ろに腰を下ろしている。それを見た綿津見は少しだけ眉をひそめたが、特に言及はしなかった。
「娘御……八坂刀売命には数日前よりお世話になっております」
「薄々事情は察しております。そのこと自体は私の干渉するところではありませぬ」
 直後、綿津見の瞳に宿る光が厳しさを増した。
「単刀直入に申し上げる。建御名方様にはこの地よりお移り頂きたい」
 予想された台詞だった。建御名方の表情に変化はない。
「出雲での悶着のこと、聞き及んでおります。大国主様のご子息ともなれば、本来は手厚くもてなすのが筋。……しかし、此度は事情が異なります」
「おっしゃること、よく分かります」
 建御名方の落ち着いた声が返る。
「ことはこの大八洲(おおやしま)を巡る一大事。一地方の国津神ごときが意見することではありますまい。しかし、このままご逗留を続けられては、州羽一帯が天津神からの離反を疑われることもあるやも知れぬ」
 神妙な顔で綿津見は続けた。
「州羽は高志ともゆかりが深い。高志の比売神の御子である貴方様に無体なことはしたくないが……お察し頂けるだろうか」
「……娘御のご温情に付け込み、いたずらに長居してしまったようですね」
「建御名方様!」
 堪らず割って入ろうとし、建御名方に身振りで制される。八坂は祈るような気持ちで綿津見を見た。
「……刀売が貴方様のお役に立つようでしたら、お好きに使って頂いて構いませぬ。か弱い比売神がお伴する分には、天津神も咎め立ては致しますまい」
「お父様!?」
「この地から離れることは娘御が望まれぬでしょう」
 建御名方の決断は早かった。
「明日、ここを出て行くことでお許し頂けますか。さすがに今すぐというのは、これまで世話になった八坂刀売殿に対して心苦しいので」
「……承った」
 綿津見は深く頭を下げると、顔を強張らせたままの己が娘に向き直った。
「刀売。少しばかり話がある」
 その言葉を合図に立ち上がろうとした建御名方だったが、ふらりと体勢を崩した。慌ててその身体を支えた八坂は、ちらりと父を見やると、しばらくお待ち下さい、と小さく呟いた。
 
 廊下を歩く二人は無言だった。そのまま肩を貸そうとした八坂に建御名方はかぶりを振って遠慮の意を示した。ゆっくりならば問題なく歩けるという。手持ち無沙汰になってしまったが、一応建御名方が休むところまで見届けることにする。
「ごめんな、比売」
 俯いたままの八坂に、建御名方の囁きが届く。反射的に見上げると、建御名方の横顔が目に入った。先の八坂と同じように、足元に視線を落としている。
「……そんな、建御名方様が謝ることなんて……」
「比売の心遣いを無下にすることになった」
「それは! ……それより、どうしてあんな、建御名方様が無理に転がり込んだような物言いを……お引き留めしたのは私の方なのに」
 責めるような目つきの八坂に、建御名方は困ったように微笑んだ。何度も見た表情のはずなのに、今はそれがひどく痛々しい。
「大した違いはないだろ。それに、そのことが知れたらお父君と喧嘩になっていたかも知れないしな」
 ぽんぽん、と大きな手が頭を撫でる。八坂はぎゅっと握り拳を作った。
「……明日までに、出て行けるような状態なんですか?」
「ははは。まあ、どうにかするよ。本当はとっくにここを去ってなきゃいけなかったんだし」
 へらへら笑って流す建御名方。その姿に一気に視界が滲んだ。ぎょっと建御名方が慌てて八坂を揺さぶる。
「ちょ、比売が泣くことないだろ!?」
「あ……」
 一瞬呆けた八坂は、はっと我に返るとごしごしと目元を拭った。狼狽しきった建御名方に、こくりと頷いて見せる。
「……すみません」
「いや、謝る必要はないんだけどさ。……比売は優しいなあ。こんな、疫病神みたいな俺を心配してくれて」
 それは違う、と思った。八坂はただ、想い人が苦しむのが忍びないだけで、更には想い人と別れるのが辛いだけで、ひいては自分が可愛いだけなのだ。でも、そんなことが言えるはずもなく、小さく首を振るだけにとどめる。その仕草をどう受け取ったのか、建御名方はぽんと背中を叩いてきた。
「ついてきてくれてありがとな。ほら、お父君が待ってるんだろ」
 

《次》

 

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