州羽社由緒記
 
「……お待たせ致しました」
「随分かかっていたようだな」
「……少し話し込んでいたので。遅くなりまして申し訳ございません」
 綿津見の正面に座った八坂は話を切り出した。
「お父様。建御名方様のことですが、せめてもうしばらくはお見逃し頂けませんか。あのご様子で明日出立というのはあんまりにございます」
「明日を期限と定められたのは建御名方様の方であろう。それに、お一人で出歩けるくらいのお元気はある」
「出歩くことはできても戦うことは無理です! ここを出た建御名方様が、建御雷様に襲われないとでもお思いですか!?」
「刀売、そなたとて、この争い、建御名方様に理があると考えているわけではあるまい」
 鋭い眼差しが八坂を射貫く。否定できない彼女に、綿津見はため息をついた。
「……そなたのことだ。お怪我をされた建御名方様を捨て置くことはできなかったのであろう。だが、かの神々の戦いが終わらぬ限り、この地に光は戻らぬのだ」
「……そのお話は、少し前に建御名方様に伺いました」
「知っておったのか?」
 綿津見は心底驚いたようだった。その声色が、はっきり咎めるものに変わった。
「……州羽に坐す神として、そのような災いの種は排除せねばとは考えなかったのか?」
「さりとて、未だ万全でない御身を戦禍に叩き出すことが正しいとは思えません」
 はっきりとした口調で言い返す八坂に、綿津見は渋面を作った。人目を憚るようにちらりと扉を見やり、声を低くする。
「……この長雨で、洩矢(もりや)様が弱っておられる」
「!」
 さっと頬から血の気が引いた。洩矢神は州羽の地を統べる土地神であり、綿津見や八坂など、この一帯に住まう神々の頂点に君臨している神である。
「建御雷様は現在、守屋山の頂上におられる。本拠地を乗っ取られた上、この禍々しい雨が続いたとあって、洩矢様のご負担は相当なものであられる」
「そんな……」
 八坂は唇をわななかせた。両手で口元を覆い、言葉を詰まらせる。
 もし、洩矢神に何かあれば、長雨による農作物の不作や、増水による洪水や土砂崩れなどで済まされる話ではない。州羽一帯の自然の均衡が完全に崩れてしまう可能性もある。更に、今まで洩矢神が担っていた役割を誰が引き継ぐかを巡り、神々の争いを呼び込むことは必至だ。
「……伝えるべきことは伝えた。後はそなたの気が済むようにするが良い」
 すっかり青ざめてしまった八坂に、綿津見はそれ以上追い打ちをかけるようなことはしなかった。一瞬だけ気遣わしげな視線を娘に向けたのち、降り続く雨の中に消えていった。
 
 守屋山は州羽湖のほぼ真南に位置し、八坂の住まう社とは湖を隔てた反対側にある。蓑笠を着込んだ彼女はぬかるんだ山道を急ぎ足で進んでいた。
 建御名方がぐっすりと寝入っているのを確認したのち、彼女はこっそりと社を抜け出した。途中、州羽湖の脇を緊張しながら歩く。州羽湖――州羽の海の底には、綿津見の社がある。出歩いていることを父に悟られやしないか、いや既に気づかれているのかも知れない。高鳴る鼓動が、延々と響く雨音を掻き消した。
 息を切らせながら、守屋山を懸命に登る。視界が悪く、油断すると足を引っかけそうになる。ふと背後を顧みると、眼下に州羽湖がぼんやりと確認できた。天気のせいか、ひどく濁っているように見えた。
 ゴロゴロ……という不穏な音にはっと頭上を見上げる。どす黒い雲の切れ間から、カッと閃光が走る。思わず八坂は顔を背けた。
 恐る恐る目を開けると、先ほどまでは誰もいなかったはずの茂みに、男が佇んでいることに気づいた。ぎくりと肩を震わせ、一歩後退する。対してその男はためらいなく近づいてきた。
 若い男だった。切れ長の目元と、剣呑な光を宿した瞳が印象的だ。建御名方ほど筋肉質ではないが、だからといって彼より弱いとは到底思えない。それは、腰に佩いた剣のせいだけではなかった。
 出雲の軍神である建御名方とは圧倒的に異なるその雰囲気。辺りを払う威圧感。――目の前に降臨した相手が天津神である証だ。
「……国津神の娘か」
 確認ではなく確信をもって問う声。八坂は震える声を紡いだ。
「……州羽の綿津見が娘、八坂刀売にございます」
「建御名方神を匿っている者だな」
 こくりと頷き、肯定して見せる。ごくりと喉が鳴った。
「建御名方神の命乞いにでも参ったか」
 建御雷は無表情だった。平淡な口調が逆に八坂の胸に突き刺さる。
 八坂は意を決し、唇を引き結んだ。
「――掛けまくも畏き雷の大御神、建御雷神の命に申し上げます」
「――申せ」
「八雲立つ出雲より来たる軍神、建御名方神のことでお願いしたき儀がございます」
 無言で促してくる建御雷に、八坂は跪いた。
「彼の神、建御名方神のお振る舞い、御心に添われぬことと存じます。しかし、彼の神の行いは、御父神の治めし国を想うがゆえ。断じて天照大御神様、高天原に坐す神々への反逆ではございませぬ」
「……そなたは、建御名方神の振る舞いを是とするのか」
「いいえ!」
 八坂は顔を上げた。
「何とぞ、お慈悲を頂きたいのです。建御名方神は、前(さき)の戦にて大層深手を負っております。どうか、その命を奪うようなことは……」
「それは建御名方神の振る舞い次第だ。我らの目的は出雲神を滅ぼすことではなく、豊葦原瑞穂国を手に入れること。それを邪魔立てする以上、彼の神は排除せざるを得ない」
「しかし! 天照大御神様に献ずる国を、血の穢れを伴って奪うことが望ましいとは思えませぬ。更に、御薦(みこも)刈る科野国は此度の争いにより疲弊しております。そのようなことが大御心(おおみこころ)にかなうとは思えませぬ」
「だからこそ我らは、今までに何度も使者を派遣し、穏便にことを進めるよう尽くしてきた。それを、武力で抵抗してきたのは建御名方神だ」
 毅然とした態度の建御雷。
「建御名方神の道理が父神への孝心にあると申すならば、我とて天照大御神様への忠義にかけて退くわけにはいかぬ」
 何も反論できなかった。唇をかみしめてうなだれる八坂に、建御雷は告げた。
「そなたが望むのが、故郷の平穏にせよ、建御名方神の身の安全にせよ、行く末を決めるのは建御名方神だ。思うところがあるならば彼の神に申すのが早かろう。――分かったならば疾く去(い)ね」
 八坂は、おずおずと頷き、深い礼をした。のろのろと顔を上げたときには既に建御雷の姿はなかった。雨は相変わらず降り注ぎ、八坂の肩を打ち続けている。早く帰らなくては。頭ではそう分かっていたが、なかなか一歩が踏み出せない。しばらくの間、彼女はその場で立ち尽くしていた。
 

《次》

 

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