州羽社由緒記
 
「――比売!」
 社に辿り着いた頃には空が白んでいた。顔を上げると、拝殿の前に寄りかかった建御名方の姿が視界に入る。すぐさま軒先から飛び出した彼にぎょっとし、慌てて駆け寄った。
「やめて下さい! 濡れてしまいます!」
「良かった……!」
 勢いそのまま抱きすくめられ、絶句する八坂。動揺のあまり固まってしまう彼女など意に介さず、建御名方は続けた。
「目が覚めたら、比売がいなくなってて……どこに行ったのか心配で、ずっと待ってたんだ。……あー良かった」
 ぎゅっと肩に力が込められ、ますます八坂は狼狽する。ばくばくとうるさい心臓の音を自覚しつつ、途切れがちに声を発した。
「…………あ、の……」
「あっ悪い!」
 消え入りそうな声に冷静になったのか、ぱっと建御名方が離れた。真っ赤になった顔を見られぬよう、俯いたまま歩みを進める。
「早く、軒先に入りましょう……お風邪を召されては大変です」
「あ、ああ」
 足早に駆けていく八坂に戸惑いながら、建御名方は従った。蓑笠を脱ぎながら、あからさまに目を合わせようとしない八坂を不審そうに見やる。
「……結局、比売はどこに行っていたんだ?」
「!」
 羞恥心が一気に吹き飛んだ。何も返せない八坂の顔を覗き込むように、建御名方が腰をかがめる。
「お父君のところか?」
「……は、はい。そうです」
「――そっか」
 ちらりと建御名方を窺うと、何か考え込んでいるようだった。咄嗟の嘘が見破られたのか、それとも綿津見との用件について思いを巡らせているのか。神妙な表情を見ていたら、もう駄目だった。
「……申し訳ございません。今のは嘘です。本当は、建御雷様の元に参っておりました……」
 がっくりとうなだれ謝罪する八坂に、建御名方の様子が変わった。色をなして問い詰める。
「何かされなかったか!? 怪我はないか!?」
「だ、大丈夫です!」
 不安を露わにする建御名方に慌てて否定して見せる。あまりの剣幕に八坂は上目遣いで続けた。
「第一、無関係の者に危害は加えないとおっしゃったのは建御名方様ではありませんか……」
「それは介入してこない者って意味で……意図的に接触を図るのは違うだろ。そりゃあ、無力な比売神に手出しすることはよっぽどないだろうけれど。……あー焦った」
 額に手を当てて腰を下ろす。八坂が建御雷と会ったと聞いても、彼女が建御名方を売り渡すような真似をしたなどとは思いつきもしないようだ。心底の安堵と疲労が入り交じった表情に、八坂は顔を曇らせた。頭を下げる。
「差し出でがましい真似をして、本当に申し訳ございません」
「……いや、そんなことさせたのも俺の不甲斐なさゆえだもんな。謝るのはこっちだ」
 ふう、と建御名方は重苦しい息を吐き出す。それで、と八坂を見上げた。
「奴とは何を話したんだ?」
「そ、れは――」
 八坂は言い淀んだ。建御名方の命乞いをした。州羽を痛めつけるのはやめるよう懇願した。結果――それは建御名方の態度次第と退けられた。
 黙ってしまった八坂に、建御名方はかぶりを振った。
「いや、やっぱりいい。それより――」
 真剣味を増す声色に何かを感じ取り、八坂は顔を上げる。建御名方の真っ直ぐな眼差しがこちらを見据えていた。
「出立の準備をしたい。……手伝って貰えるか?」
 強い意志が込められた表情だった。それでもなお、八坂は問いかけずにはいられなかった。
「……お身体の具合は、もう宜しいのですか」
「比売のおかげで、かなり楽になったよ」
 でもまだ万全では、と返しかけ、口をつぐむ。似たようなやり取りはもう何度もしている。
 もう、彼女に彼をとどまらせる術はないのだ。
 

《次》

 

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