州羽社由緒記
 
 建御名方が社を後にしたと同時に、雨は激しさを増した。二、三歩先ですら危うい視界にちっと舌打ちする。まるで、お前の動きなど筒抜けだと言わんばかりではないか。
 しばらく歩き続けたが、やはりすぐに息が切れてきた。それでも、もう少し、もう少し、と己を鼓舞して前に進む。
 一度だけ、後ろを振り返った。もちろん何も見えるはずはない。
「……この辺りでいいかな」
 立ち止まる。そして、腰に佩いていた太刀を抜いた。雨音に混じり、鋭利な金属音が響く。
 ぐっと柄を強く握った。ごつごつとしたものが手のひらに食い込む。装飾として埋め込まれている玉だ。出雲で磨かれた最上級のもの。
「……ごめんな」
 建御名方はそれを、勢いよく地面に叩きつけた。持ち主の手によって意図的に害されたそれは、いとも容易く破壊された。
 パンパン、と建御名方は二度柏手を打つ。少し間が空き、更に二回。しばらく手を合わせたまま黙していた。
 また歩き出し、休み休みながら山を下っていく。守屋山はどちらの方だったか。いっそ建御雷の方からこちらにやってきてはくれまいか。まさか登り切るまであちらは動かないつもりだろうか、冗談じゃないぞ、などととりとめなく考える。
 ようやく州羽湖まで辿り着いた。連日の雨でかなり水かさが増しているのだろう。しばし目を凝らしてみたが、相変わらずの豪雨のせいでほどんど様子は分からない。
 刹那、閃光が走った。反射的に立ち止まり、顔をかばうような姿勢になる。のろのろと顔を上げると、馴染みというほど長い付き合いではないが、この先一生忘れないだろうという面構えに向き合うこととなった。
「……よう、待たせたな」
「全くだ」
 建御雷は真顔で返した。咄嗟に身構えるが、彼は太刀に手をかけようとはしなかった。拍子抜けする建御名方の胸中を読み取ったのか、ぼそりと呟く。
「そなた、何ゆえ太刀を折った」
「……そんなことまでお見通しかよ」
 苦笑いする建御名方。だが、話が早くて助かった。ゆるゆると膝を折り、建御雷の前に跪く。
「参った。……俺の、負けだ」
 建御雷の眉根が寄った。だが、しばらくして、そうか、と頷きが返る。
「豊葦原瑞穂国を、天照大御神様に献上することを認めるか」
「ああ。俺はもう、口出ししない。後のことは父上と話し合って決めるといい」
 深々と頭を下げる建御名方を、建御雷はじっと見つめる。土砂降りだった雨が、少しずつ弱まっていく。しとしとと霧雨が降り注ぐなか、やがて投げかけられた言葉は。
「――証を」
「は?」
「証を立てよ。我らにはもう逆らわぬという、絶対的な証を」
 建御名方はぽかんと口を開けた。考え込むような間を空け、首を傾げる。
「武器を持たずにここに来たことで証明にはならないか?」
「その場しのぎの演技かも知れぬ。武具など後から幾らでも調達できるだろう」
「演技でわざわざ折るかよ! あの太刀めちゃくちゃ気に入ってたんだからな! お前も軍神なら分かるだろ!?」
 勢いよく吠えるが、建御雷は動じない。じっとこちらを見返してくるだけだ。
「誓約(うけい)をすれば満足か? じゃあ、お前の太刀を貸してくれ。それを砕いて、もし産まれたのが女神なら――」
「断る。そうではない、今ここでは叛意がなくとも、この先再びそのような企みをせぬとは限らぬだろう。未来永劫、我らには刃向かわぬという確かな証を示せ」
「えー……」
 困惑を露わにして呻く建御名方。しばし考え込み、じゃあ、と提案する。
「出雲に帰ったら一生謹慎するってことでいいか?」
「そなたが動かずとも私兵に指示して動かすことは可能だろう。出雲に帰ることはまかりならん」
「おお……じゃあ高志に蟄居するのは?」
「駄目だ。そなたが彼の地に援軍を頼りに向かっていたことを知らぬとでも思ったか」
「うっ」
 痛いところを突かれて建御名方がたじろぐ。うーん、うーんと唸り声を上げながら頭を回転させる。腕組みをして悩み始める建御名方を尻目に建御雷は独りごちた。
「だが、謹慎というのは良い考えだ。よし、建御名方神よ。そなた、この地に生涯とどまれ。外部との連絡を取ることも認めん」
「え!? いや、それはちょっと……」
 慌てて首を振る建御名方に、建御雷の目が厳しく細められた。即座に太刀に手をかける。
「不満か」
「不満っていうかさあ! 今回のことで州羽をかなり荒らしてしまったわけだし、その当事者が一生居座るってのは、この地の神々の怒りに触れるに決まってるだろ!?」
「丁度良いではないか。生涯後ろ指を差されながら暮らすのが相応の罰だ」
「そんな……」
 がっくりと崩れ落ちる建御名方。その様子を眺め、建御雷はようやく剣から手を離した。
「決まりだな」
「待ってくれ! せめて、あまりにも反発が強かった場合、別の国を宛がってくれよ!」
「却下する。――大国主神には私から伝えてやる。他に、何か言い残すことは」
 取りつく島もなかった。ぱくぱくと声にならない文句をぶつけるも、何を言っても無駄だと悟り、静かに首を振った。その動作を見届け、建御雷は一つ頷く。
「では、州羽への永久蟄居を以て建御名方神の証立てとする。その誓い、まことか否か、見届けさせて貰おう」
 最後にそう言い残し、建御雷は姿を消した。かなり薄くなった雨雲が、かすかに聞こえる雷鳴が遠のいていく。
 やがて州羽の地に、久々に日の神が顔を出した。
 

《次》

 

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