州羽社由緒記
 
「――というわけで、建御雷とは話をしただけなんだよ。奴がいなくなって、とりあえず比売に会いに行かなきゃとは思ったんだけど……」
 そこで一旦口をつぐむ。
「……あんまりにも不甲斐ないもんだからどう言い訳しようかと思って、ずっとここでこうして悩んでた」
「そんなこと! 大体、投降されるおつもりならそうとおっしゃって下されば良かったのに! それを知っていれば、こんなに心配することも――」
「そうは言っても、生きて帰ってこられる保証はないだろ。恭順の意思を示す前に向こうが襲いかかってくるかも知れないし、恭順したところで問答無用で殺されていたかも知れない」
「それは――」
 言い返そうとして途中でやめる。八坂は建御名方が投降さえすれば命を奪われることはないと知っていたから責めたくもなるのだが、そんなことは建御名方の知ったところではない。第一、八坂だってその情報を建御名方に伝えていなかったのだから、それだって彼にしてみれば「だったら教えてくれれば」となる。
 八坂はふう、と呼吸を落ち着けると、建御名方の顔を覗き込んだ。
「……どうして恭順されたのですか、と伺っても……宜しいでしょうか?」
 次第に伏し目がちになる八坂に、建御名方は小さく首肯した。
「……本当は、この命と引き替えてでも抵抗するつもりだったんだ。断固として天津神の奴らには従わない意志を示した上で、なおかつ父上への忠誠を尽くして死ぬなら、それもアリかなって」
 八坂は何も答えない。
「でも、比売のお父君と話して、更にその晩比売がいなくなって、ずっと帰りを待ちながら考えてた。俺が死ぬのは仕方ないとして、その後、俺の行動が原因で出雲や州羽が不利益を蒙ることも有り得るんじゃないかって――。今後天津神の統治が進む上で、反逆者の身内や、匿った者に制裁が加えられる可能性もあるだろう? 仮にそうなったとき、生きていればまだどうにかできるかも知れないけど、死んだら責任を取ることもできないから」
 それから、建御名方は眉尻を下げる。
「……あれだけ啖呵を切ったくせに、情けない奴って思われるかも知れないけど」
「いいえ。……ご自身の意志を曲げてまで出雲を想う決断をされたこと、誇りに思って下さい」
「あ!」
 突然叫ばれ、八坂は思わず身を退く。しまった、と建御名方は頭を抱えた。
「俺、もう出雲に戻れないんだった……」
 がっくりと肩を落とす建御名方に、かける言葉が見つからない。あの、えっと、と無意味な前置きを繰り返す。
「その……お辛いことと思いますが」
「いや、帰れないのは仕方ないから諦めるけど、俺、ここで一生謹慎しなきゃならなくて……州羽の神々は受け入れてくれるんだろうか?」
 あわあわしながら不安そうに尋ねてくる。つい先日、綿津見から出て行けと忠告されたばかりだ。心配はもっともである。八坂も、こればかりは何とも断言できなかった。
「えっと……大国主様のご子息ですから、普通でしたら手厚くおもてなしするのが筋かと思いますが……」
「普通だったら、な」
 ひくりと建御名方の頬が引きつる。気を持たせるつもりが逆効果だったようだ。
「で、でも! 軍神である建御名方様を力ずくで排除できるような神はおりませんし、万が一反発を受けたとしても問題は……」
「そりゃあ、無理やり居座ろうと思えばできるんだろうけど、いいことじゃないだろ、どっちにとっても」
 建御名方の顔は晴れなかった。八坂は、そんな彼を見て場違いにもほっとしてしまった。この神は、例え反発を受けたとしても、圧倒的な力の差を以て制圧しようとは考えていない。
「……州羽の神々は皆、洩矢様に従っております。父に口添えをお願いしますから、近々洩矢様にご挨拶に伺いましょう」
 こうしてこの地に光が戻った以上、洩矢神ももう大丈夫なはずだ。土地が完全に豊かさを取り戻すにはしばしの時が必要かも知れないが、州羽の地の統率者である洩矢神が無事なのだから、恐れることはない。
「……そうしてくれると助かる」
 建御名方は拝むような仕草をした。それから、ふっと寂しげな表情を見せる。
「結局、約束守れなくなっちまったな。ごめん」
「え?」
 不思議そうな顔をする八坂に、建御名方は説明する。
「いつか、高志に連れてってやるって言っただろ」
「――え、本当に連れて行って下さるつもりだったんですか?」
「あれ!? 本気だったの俺だけ!?」
 慌てて詰め寄ってくる建御名方に八坂はぶんぶんと首を振った。
「違います! 嘘とか冗談とか思ったわけじゃなくて……その後に沼河比売様への形見分けの話をされてましたし、戦って果てるお覚悟なのかと。だからその……最後に私を元気づけて下さるつもりだったとばかり」
「元気づける? 高志に行く約束が? 何でだ?」
 建御名方の頭上に疑問符が浮かんだ。真顔で聞き返され、八坂は言葉に詰まった。建御名方にとって八坂は偶然出会ったに過ぎない相手で、この戦いが終われば二度と会うこともなかっただろう。そんな彼に「この先」のことを提案されたのが嬉しかったし、例え実現しなくてもまた会おうとしてくれたそれだけで幸せだった――なんてことを正面切って言えるわけもない。
「わ、私があまりにも心配しておりましたから、えっと、無事に戻ってこられること前提の約束をすることで不安を和らげて下さったというか……た、建御名方様はお優しい方ですから」
 しどろもどろに説明するが、その顔は真っ赤だった。どうにかこの場を誤魔化そうと、わざとらしく話題を変える。
「そういえば、お預かりしていた首飾り、お返ししますね。今から取りに行って――」
「あ、待った!」
 ぐい、と手を掴まれて引き留められる。八坂は目を白黒させるが、動揺する彼女の心など全く気づかない様子で建御名方は指を差す。
「もう一つの約束は忘れてないよな? ほら、見てみろよ」
 言われて首を巡らせると、ゆらゆらと波を立てる州羽湖が目の前に広がっていた。ここ数日の雨で水かさが増しており、水底にも暗い泥が蠢いている。でも、その水面は確かに日の光を受けて煌めいていた。
「出雲にも陸で囲まれた海はあるけど、ここのは全然違うんだな。山に囲まれていて、全体が見渡せる」
「はい。秋は錦の山、冬は雪山を背にして、とても綺麗なんです」
「そっか。今年の秋が楽しみだな」
 にかっと建御名方が笑った。久々に見た、彼の満面の笑みだった。その表情に、じんわりと胸が温かくなる。こういう屈託のない彼が好きなのだと、改めて実感する。
 すっと建御名方の手が離れた。それは何気ない仕草で、掴んだときと同じく、彼にとっては何の意味もない行為なのだろう。それでも、その手を握り返すことなど到底できない八坂にはひどく遠いものに感じられた。
 

《次》

 

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