双輪 ―フタツノワ―
 
 役人たちに続いて、当然のことのようにその場から立ち去ろうとした巫女を、しかしながら里長は呼び止めた。他人に悟られないようにと、屋敷の裏に彼女を連れ出す。
「――それで、これ以上私に何の用があると? 其方の質問にはすでに答えたはず」
 里長は目を伏せ、青ざめながらも最初の一言を切り出した。その肩は小刻みに震えている。
「……あの話は、まことか」
「はて、どの話のことを仰っているのやら」
「とぼけるな」
 きっと睨み付けるが、巫女は余裕で笑っているだけだ。その長い前髪から覗く右目が恐ろしくて、長は再び俯いてしまう。
「――六年前、私が捨てた赤子が生きているという話だ」
 その言葉に、巫女は更に唇をつり上げた。
「そう申し上げたはずだが?」
「本当に――本当か」
「信じるか否かは其方の勝手よ」
 その台詞は、以前にも聞いたことがある。そのことを思い出し、長はびくりと身を震わせた。
 彼がこの里の長に就任してすぐのことだ。もう、十年は前のことになるだろう。ある日、巫女は大神からのお告げと称してあることを里に命じた。しかし、その内容はとても聞けるものではなかった。言う通りにすれば、里の産業が破綻する。そんなことは、あってはならない。
 そんな神託は聞けないと長たち里の役人一同は拒否した。土地神である大神様が、我らの生活を破壊するはずがない、お前は嘘を言っている、と。
 しばらく黙っていた巫女は、やがて顔を上げて笑った。
 ――まあ良い、信じるか否かは其方たちの勝手。
 それから、里は立て続けに災禍に見舞われた。多くの自然災害により、人命、食料、資源――ありとあらゆるものが失われた。託宣を受け入れた方がましだったと思えるほどの。
 ――私たちが悪かった!
 長は、生まれて初めて誰かの前で手をつき、額を地に擦り付けた。その正面には、冷ややかな目をした巫女が、眉をピクリともさせずに立っている。
 ――礼は後から幾らでもする。……今は力を貸してくれ。
 土砂災害で、里は存亡の危機に面していた。だが――巫女と、大神の力さえあれば。大神の慈悲が受けられれば。
 そう言って土下座する長に、巫女は嘲笑を返すだけだった。
 ――慈悲? 我が君のお言葉を信じなかった其方らに、今更? 笑わせてくれる。それに、私は里の巫女ではなく、大神様の巫女。私が動くとしたら、大神様の命があった時のみよ。
 その言葉に、長はそのままの姿勢で戦慄した。口もが硬直してしまい、言葉が出てこない。唯一分かったのは。
 
 ――この女は、最早ヒトではない。
 
 目の前で人が苦しんでいるのを見ても、何とも思わない。ただの化け物。そのことに気付き、彼は途端に腰を抜かした。無様に尻餅をつく長を、巫女は心底楽しそうに見た。
 その唇が言葉を発す前に、長は震える足を叱咤しつつ、やっとのことで逃げ出したのだった――。
 
 気が付けば、目の前から巫女は消えていた。里長があの出来事を回想している間に帰ったのだろう。まだ訊きたいことは終わってない。長は僅かに憤りを覚えたが、同時に少し安心している自分に気付き、苦々しく思った。
 今までのことは、悪い夢だったのではないか。そう思ってしまいたかったが、無駄な現実逃避は嫌いだった。代わりに小さく、呟いてみる。
「――あの時の、娘が……」
 巫女の底知れぬ笑みを思い出すと、吐き気がした。
 
「――みこさま!」
 見慣れた少女――否、まだ童女と言ってもなんら差し障りのないほどの幼い人影に、巫女は僅かに目を見張った。
「みかげ」
 相手が反応したことが嬉しいのか、童女はぱたぱたと駆けてくる。その小さな肢体は、目の前の女性と揃いの巫女装束に包まれていた。せいぜい違いといえば、童女の方は千早を羽織っていないことだろうか。
「今日はずいぶん、おそかったのですね」
「ああ。――少し長引いてしまったからな。それより、むやみに外へ出てはいけないと言ったはず」
 その言葉に、童女――みかげは首をすくめた。恐る恐る巫女を見上げ、眉尻を下げる。
「だって……みこさまが、なかなかかえってこないから」
 みかげに悪意は露ほどもないのだ。巫女にもそれが分かっているから、それ以上言及しない。だが、この童女がもう少し身を慎んでくれたら、噂は広がらなかったのではないか。
「そうか、心配をかけたな。ではもう中へ入ろう。暗くなってきた」
 そう言って、その小さな頭を撫でてやる。みかげは心底無邪気な笑顔を浮かべ、勢いよく頷いた。
 
 養い親の巫女と、実の父親である里長。この二人の思惑とは別のところで、みかげはすくすくと成長し、やがて童女は少女となる――。
 

《次》

 

一次創作に戻る

inserted by FC2 system