双輪 ―フタツノワ―
 
「良い天気ー」
 声に出してみると、幾分か空の蒼さが増したように思う。そのことが嬉しくて、みかげは一人微笑んだ。 
 彼女は十七になっていた。長い髪を一気に後ろで束ね、服装は相変わらずの白衣に緋袴。その瞳は、巫女のそれとは対称的に、柔らかな明かりを灯している。
 みかげは適当な場所に腰を下ろした。髪が少しだけ地面に触れてしまうが、彼女は気にも留めない。
 将来は巫女の後継となるよう教えられてはいるが、別に修行というほどのことをするわけでもないので、基本的に彼女の生活は暇だった。ただ、修行中の身で世俗の穢れに触れてはならないと、森の外へ出ることのみ禁じられている。だから彼女はこうして時折、社から出ては草花を愛で、動物と戯れる。
(早く私も一人前になれたらな。そうしたら外へ出て行けるのに)
 幼い頃に、一度だけ森から抜け出してみようと試みたことがあった。しかし、すぐに巫女に見つかってしまい、こっぴどく叱られた。元から巫女は厳しい性格だが、物静かで怒鳴るようなことなど絶対にしない巫女が声を荒げるのを見て、みかげは震え上がったものだ。よほど森の外は恐ろしい場所なのだと、彼女はそれ以来逃げようとはしなくなったのだ。
 でも、一人でいるとふと、こう思ってしまう。
「外の、世界か……」
 
「何でだよ」
「駄目と言ったら駄目だ」
「……俺は理由を訊いてんだよ!」
 一気に怒鳴りつけると力が抜けた。ゼイゼイと息切れに喘ぐ息子に、里長はただ冷たい視線を送るのみ。
「何度でも言う。鎮守の森へ入ることは許さん」
「だから何でって訊いてんじゃねーか。人の質問にはきちんと答えろクソ親父!」
 がつん、と鈍い衝撃が脳天を貫いた。蛙が潰れたような声を上げて悶絶する息子に、長はひとこと言い放った。
「クソ親父とは何ごとだ」
「……父君、様」
 少年は上目遣いで、渋々言い直した。心の中で「クソじじい」と付け足すのも忘れなかったが。
「本当、何で駄目なんだよ。……俺は次代の長だぜ? 鎮守の森に入る権利はあるはずだ」
「なら、わしからも訊くが明宏、何ゆえお前はあそこへ行きたがる? そう面白い場所でもないだろうに」
 別に、と明宏と呼ばれた少年は呟く。そんな大層な理由はないのだ。純粋な興味本位だけであって。
「ならば許さん。――用もなしにあの森へ入ってみろ。巫女に呪い殺されるぞ」
 
 幾らそう脅したとて、それで引き下がるほど素直な明宏ではない。
 大体、目に見えない力を信じ畏れることが出来るほど、彼は幼くも年をとってもいなかった。
「あのクソ親父、絶対何か隠してやがる。理由もなしにあれだけ慌てるかって、普通」
 里長本人は平静を装っているつもりだったが、十六年間共に過ごしてきた一人息子からすればそんなもの一目瞭然である。普段が真っ直ぐで理路整然としているだけに、こういう時はすぐに見破られてしまうのだ。
 明宏は諦めた。――父の了解を取り付けることを。仕方ないから無断で行こうじゃないか、と彼は屋敷を抜けて来た。後を付けられる心配は全くしていない。父はこれから里の重役と会議があるのだ。
 巫女に見咎められることは――気にしていないと言えば嘘になるが、彼女とは面識があるし、話せば分かってくれるだろう、うん、と楽観視していた。話せば分かってくれるような物分かりの良い相手ではないことは十分知っているはずだが、あえて考えないことにする。最優先は自分の知的好奇心を満たすことだ。
 森への入り口は、普段通りに閑散としていた。神聖な鎮守の森なのだから、もう少し何かあっても良いのではないかと彼は思う。偉大なる大神様は派手なことが嫌いなのだろうか。
 森の中には社へと続く参道があるが、明宏はそこを避けて茂みの奥へ侵入していく。無許可で進入しているという自覚があるからだ。別に巫女に会いに来たわけでもないし。
(……? 別に何の変哲もない森じゃねえか)
 あれほど父親が頑なに入ることを禁じていたのだ。絶対何かあると思っていたのだ。しかし、里にある幾つもの森と比較してそう特異な点があるわけでもなかった。強いて言えば、野生の生き物の姿をあまり見ない気がする。だが、全くいないわけでもない。
(――やべっ)
 前方に人影を見かけ、明宏は慌てて身を隠した。しかし、すぐに目の前の女性が、彼の知る巫女ではないと気付く。格好は同じだったが、あの巫女にしては小柄だし、また動作にも違和感を感じた。いつもの緩慢とした動作ではなく、子供っぽく落ち着きがない。巫女が身動きをするたびに響く、鈴の音も聞こえなかった。
(……あれ、ここに巫女殿以外の人がいたのか……)
 こうなると、途端に好奇心が湧き上がってくる。明宏は身を乗り出し、目の前の少女をよく見ようと目を凝らした。
 ――と、勢い余って前のめりになる。そこからはお約束で、彼は見事に茂みから少女の方へと派手に転げ出し、その大きな音に目の前の少女が気付かないはずはなく。
 少女――みかげは、突如背後から転がり出てきた見知らぬ少年に、目を白黒させたのであった。
 

《次》

 

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