双輪 ―フタツノワ―
 
 驚いた。
 何に驚いたって、自分に気付いた少女が最初に呟いたのが
「……人……?」
 だったことだ。どう見たって人だろう。根っからの性格でつい、明宏はその言葉にこう応じてしまう。
「……猿にでも見えるか?」
 不機嫌そうに答えるが、今現在彼は少女にとって不審人物以外の何者でもない。そのことに気付いたのは、少女がその大きな瞳に、怯えの色を滲ませてからだ。
「……あ、ごめん。怪しい者じゃないんだ。えっと、里に住んでる……うん、ただの里人!」
 必死に弁解しつつ、彼は自分の言葉が墓穴を掘る役割しかこなしていないことに気付いていた。後ろ暗いことがなければ普通こんな言い訳はしない。
 里長の息子と言えば納得してもらえるかも知れないとも考えたが、明宏は言葉を続けることを躊躇った。何となく嫌だったのだ。「長の息子」として扱われることが。
 対する少女は、しばらく困惑していたものの、やっとのことで次の言葉を口にした。
「えっと……あなたは、里の人なのね?」
「そう! 別に怪しいことなんか何もない!」
 だからそれが怪しいんだって、と自分で突っ込んでしまうのが悲しい性だ。だが、少女が安心したように息をつくのを見て、明宏も顔をほころばせた。信用してもらえたらしい。
「ごめんなさい、さっきは怒った? ……巫女様以外の人に会うなんて、初めてだから」
「え? ……そうだ、君は誰? 何でこんなとこにいるんだ? 巫女殿とはどんな関係?」
 矢継ぎ早に質問を浴びせたため、少女は再び戸惑いの表情を見せた。それでも一つ一つ、丁寧に答える。
「……私は、巫女様の――娘よ。巫女様には『みかげ』って呼ばれているわ。将来は巫女様の跡を継ぐの」
「娘?」
 あの巫女に娘なんかいたのか、と明宏は驚いた。十年前のあの一件は、里長から緘口令が敷かれているため、彼はうわさを知らないのだ。
 うん、とみかげは小さく頷く。
「ただ、私は捨て子だったから……本当の母君様ってわけじゃないけど」
 なるほど。だから巫女を「母」と呼ばずに「巫女様」と呼ぶのか。
 納得した明宏は、もうこそこそする理由はなくなったこともあり、無遠慮にみかげを眺め回した。
 血が繋がっていないという話の通り、巫女とみかげの容姿には共通点がなかった。巫女は男をも縮こませる精悍な瞳を持っているが、みかげは大きな瞳に不安げな光をたたえている。明宏は何となく、里で見かける小動物を思い出した。
 しばらく明宏の視線に晒されつつ黙り込んでいたみかげは、意を決したように口を開いた。
「……あの……私からも、一つ訊いてもいい?」
「あ、ああ。何?」
 そう問いかけるみかげの表情は真剣そのもので、思わず明宏も背筋を伸ばしてしまう。そうして彼女が紡いだ言葉は、意外なものだった。
「……あなたにも、大神様のお声が、聞こえるの?」
 
「――」
 明宏は今度こそ絶句した。今、この少女は何と言った。
 ところが、みかげはこの沈黙を正反対の意味で解釈したらしい。深く失望した顔で俯いた。
「あ……ごめんなさい。……そうよね、普通聞こえるのよね」
「ちょ、ちょっと待った!」
 明宏は慌ててその続きを制した。これ以上誤解されては面倒なことになりそうだ。
「き、聞こえるわけないだろ!? 大神様の託宣が受けられるのは巫女殿くらいだよ!」
 みかげは驚愕に目を見開く。驚くところが違う、と明宏は肩で息をしつつ思った。
 それとも、彼女にとっては驚くべきところなのだろうか。みかげは、将来巫女の跡を継ぐと言った。それは、巫女になるべき資質――神の声を聞く能力を持っているからなのかも知れない。
 しかし、脳裏に閃いた僅かな疑問は、みかげの表情を見たことですっかり消え去った。彼女の表情がゆっくり安堵に彩られていったのだ。みかげはほうっと息をつき、その場にしゃがみこんだ。
 明宏はますます慌てる。
「ど、どうした?」
「――った……」
 え、と明宏は訊き返した。みかげの顔を覗き込んでぎょっとする。彼女は、目に涙を浮かべていた。
「良かった……」
 そう呟き、みかげは柔らかく微笑んだ。その何気ない表情に、明宏はどきりとする。それからみかげは、ぽろぽろと大粒の涙を流し始めた。
「――ずっと……不安だったの……。巫女様に見えているものが、私には見えなくて……。聞こえてるものが、聞こえなくて……。それが普通だ……って、巫女様は仰っていたけど……っそれでも……」
「――みかげ……」
 彼女の不安が、流れ込んできた気がした。
 幼い頃から彼女の傍にいるのは巫女一人で。彼女にとっての「人間」は巫女ただ一人で。その巫女と同じものが感じられないというのは、少女にとって大きな苦しみの種となっていたのだろう。
「……大丈夫、みかげは俺たちと全然変わらない。普通の人間だ」
「……うん……」
 みかげはしばらく泣いていたが、その表情には既に憂いの色はなかった。明宏はとりあえず、そのことに安心する。女の子に目の前で泣きじゃくられるのは結構つらい。
(――みかげは、普通の人間だ)
 明宏はもう一度、心の中で繰り返す。今度は、自分自身に言い聞かせるために。ずっと森の中で、外の世界に触れることなく生きてきただけ。巫女見習いだからといって、特別なことなんか何もない。それは「里長の息子」として時折一歩引いたところから接される明宏にとっても同じことだった。
 それから、しばらく声を潜めての会話を楽しんだ。いつ巫女に気付かれるかびくびくしたものだったが、それもみかげの笑顔のおかげで忘れることが出来た。
 みかげは興味津々で里のことを尋ねてきた。答えられる限りのことを明宏は教え、同じくらいみかげの森での生活についてを質問した。お互いに新鮮なことばかりで、時間はあっという間に過ぎていく。
「……明宏、また来てくれる?」
「ああ、勿論」
 最後にはこう言葉を交わし、二人は別れたのだった。
 この時は二人の間にある、秘められた宿縁のことなど知るよしもないのであった。
 

《次》

 

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