双輪 ―フタツノワ―
 
 その効果は絶大だった。
 嫌悪と、畏怖と――様々な感情が長の目を光らせる。
「何が兄だ! お前は、お前は――」
 今まで記憶の隅に追いやっていたこと―― 一生思い出すこともないと思っていた事実を正面に示され、長は怒りを剥き出しにした。
 何が兄だ。ヒトであることを捨てたお前が。幼き日の思い出も、何もかもを捨て去ったお前が。
 
「――怖いの。巫女様が怖い」
 
 そう言って一人泣いていた妹。
 目を真っ赤にして、こちらを見上げた、大切な。
 
 彼らもまた、忌むべき男女の双子だった。自分が双子であり、その片割れが森でひっそりと暮らしていることを知ったのは十一の時だ。両親が話しているのを、少年時代の里長――照彦は偶然聞いてしまった。捨てたはずの子を、当時の巫女がこっそり育てているらしい、と。
 それからこっそりと森へ行き、妹に会った。自分の出自を知った少女は、やがて目の前で泣き崩れた。
 ――怖いの。巫女様が、変なこと言うの。神様の声が聞こえるって。私には、そんなの聞こえない。それなのに、お前は将来、巫女様の跡を継ぐんだ、って――
 彼女は、自分とは別の世界に生きる巫女に怯えていた。幼くして生きる道を奪われかけた妹は、しかしながら恐怖におののく毎日に押し潰されかけていた。
 そして照彦もまた、先代から妹と会うことを禁じられる。お前が来るから、あの娘は里に憧れる。巫女となることを拒むのだ、と。
 大丈夫、と照彦は無理矢理笑顔を作った。お前も一人前になれば、里に来られる。そうしたら、いつでも会える――。
 ――かくして数年後、先代の巫女が死んだ後、照彦の前に姿を現したのは、昔とは全く別人となった妹だった。
 
「――お前は、私を裏切った!」
 ようやく、長年抱き続けた思いを吐き出せた。
 再会の日を心待ちにして。期待に胸を膨らませた会見の場。
 しかしそこで見たのは――かつてあれほど神を恐れた妹が、大神の妻を名乗り、大神の存在を語る光景だった。
 最早彼女は、照彦の知る妹ではなかった。
「――裏切った?」
 目の前の巫女は嘲笑する。ああ、妹はこのような笑い方が出来る人間ではなかったのに。
「私が託宣を受けられるようになったことを裏切りと言うか。裏切ったのは其方ではないか、長?」
 巫女は少しだけ――ほんの少しだけ、哀しげな色を瞳に宿す。
「其方は、己の血を分けた子を、いとも簡単に捨てた。己が父親のした行為は、あれほど憎んでいたと言うのに」
 ――赤子に罪はないじゃないか。自分の子を捨てるだなんて、親のすることじゃない。
 幼き頃、幾度となく照彦が妹に言った言葉。
 十六年前のあの日、小さな赤子を腕に抱いてやってきた彼は、かつて自分がそう言っていたことも覚えていなかったのだろう。
「あれは――仕方がなかったんだ! 将来里長となるべき者に、妙な噂がついては困る! だから――」
「あれほど嫌った父親と同じことを言うのか。そう言いながら、本当の理由は別にあるだろうに」
 びくりと長は肩を震わせる。この巫女は、既に見抜いているのだ。何もかも見抜いていて、それでいて詰問するのだ。
 これ以上、じわじわと追い詰められるのには耐えられない。
「――ああそうだ! お前が思っている通りだ! 私は、双子が産まれたことでまずお前を思い出した! あの娘は、お前の再来のように思えた! やっと忘れかけていたのに! 折角跡継ぎも生まれたのに、よりによって――!」
 結果、長は全てを吐露した。
 自分が娘を捨てたのは、妹を思い出したくなかったからだ。奇妙に一致するその符合。いずれは、この娘も妹のようになってしまいそうで。だから、捨てることにした。
「長、其方は変わったな。いとけなき頃は決してそのようなことをする人間ではなかったと言うのに」
「変わったのは、お前の方だ、――光(ひかる)!」
 
 名前と言うものを、妹は知らなかった。
 初めて会った時に名を問うと、ただ目をしばたかせた。巫女様は、名など呼んでくれない、と。
 再び目を潤ませ始めた妹に、照彦は慌ててこう言った。
 ――ないなら、俺が付けてやるよ。えっと……「光」ってのはどうだ?
 このような暗い、森の奥に暮らしていても、決して外の光を見失うことなきよう。自ずから輝く存在となるのだと。そんな、祈りに満ちた名前。
 その名を貰い、「光」となった少女は、心からの笑みを浮かべたと言うのに。
 
「お前は――あの娘に『みかげ』と言う名を与えたそうだな」
 息子の口から発せられた、その名前。照彦が妹に望んだのとは、正反対の意味を持つその名。
「そう。大神様の影となり、お仕えせよと――『神影(みかげ)』となれと、な。まさに、巫女に相応しき名であろう?」
 そう笑いかける巫女は、やはりあの頃の妹の姿には程遠かった。
 ああ、いつから彼女はこのようになってしまったのだろう。何故――我らはこんなにも隔たってしまったのか。
「――巫女よ、最後に一つだけ答えろ」
 巫女は、返事をしなかった。しかし里長は構わず続ける。
「……あの娘を拾ったのは、何故だ?」
 里長へ復讐するためか、それとも――かつての己と同じ境遇におかれた、哀れな娘への同情か。
 長は懐に入れた短刀を握り締めた。心臓が大きく脈打ち、手のひらが汗ばむ。――前者だと言ったら、彼は巫女を殺すつもりだった。向こうがそのつもりなら、彼女はいつか必ず自分を殺める。そうなるくらいなら、こちらから手を下す。自らの手で、この呪縛を――解き放つ。
 ちりん……と、鈴の音だけが響く。巫女はふっと唇の端を持ち上げた。
「大神様の命であったからに決まっておろう」
「んなっ――」
 こんな時まで神の存在を持ち出すのか。里長は激昂しかけたが、短刀を抜こうとしたその手が、ふいに止まった。
「――大神様は、仰った。赤子を助けるも、見殺しにするも其方の自由。好きにせよ、とな」
 みかげを拾ったのは、あくまでも巫女本人の意思。巫女の思惑がどこにあったのかは、里長には読み取れなかった。しかし――目の前の巫女は、少し哀しい瞳をしていた。
 長の右手が、懐から滑り落ちた。その手に、先ほどまで握られていた短刀は、ない。
「――私は、お前が恐ろしい」
 ヒトではないものと触れることの出来る彼女が。そして、そのためならば何をも犠牲に出来る彼女が。
 疲弊しきった長を見つめる巫女の目に、最早先ほどの哀愁は欠片もない。いつもの謎めいた微笑を浮かべる。
「知っている。私とて、其方を兄と愛おしく思うことはない。――永遠にな」
 二人は、既に別の世界の人間なのだ。そのことを、今はっきりと思い知る。
 里長は、黙って踵を返した。これ以上、彼女と話すことなど何もない。来た時と同じ参道へと引き返す長に、巫女は最後にこう言った。
「私を殺さなくていいのか? その、懐に入っているもので」
「!」
 気付いていたのか。長は驚き振り返り、ただ唇を噛んだ。結局、全て見透かされていたのではないか。
「……私がこれを抜いたら、其方は大人しく刺されたか?」
「まさか。返り討ちにしたに決まっておろう」
 間髪入れずにこう返す巫女に、長はただ重苦しい息を吐き出したのだった。
 もう、振り返ろうとは思わない。お互いに、もうあの頃には戻れないのだ。元々期待などはしていなかったが、今夜それがはっきり分かった。
 巫女を厭う気持ちは変わらないし、彼女とてこちらを嫌悪している。それでもういい。今までのことなど忘れて生きていこう。長がそう、心中で呟いたその時だった。
 ――目の前に、巫女装束をまとった少女が現れた。
 

《次》

 

一次創作に戻る

inserted by FC2 system