たずねびと。番外―決別
 
 これで最後にして頂きたいのです、と彼女は告げた。
 私たちの道は、ずっと昔から既に別たれているのですから、と。
 
「晴れて良かったねー」
 小ぶりな手を空にかざしつつ、リノはひょっこりと外に躍り出た。身にまとうくすんだ色の着物とは対照的に、その表情は明るく朗らかだ。
 彼女が飛び出した先には一人の少年がいた。身体に風呂敷を括りつけ、腰には竹筒を下げている。リノは彼の正面で立ち止まると、ふと首を傾げた。
「ソウマ、お花は?」
「ああ、この暑さだし、直前に調達するよ。……じゃあムツミさん、行ってきます」
 リノの後に続いて出てきた女性に向き直り、ぺこりと頭を下げる。ムツミは娘より一つ年上の少年に柔和な顔で頷いた。
「ご両親に宜しくね。気をつけて」
「はい」
「母さん、行ってきます」
 振り返った拍子に少女の髪先が楽しげに跳ねる。幼い頃から変わらない、どこか小動物を思い起こさせる動きに、ムツミは目元を和ませた。
「行ってらっしゃい」
 並び立って歩き出した若者たちの背中を、ムツミは穏やかに見送る。何やら睦まじく会話をしているのがかなり遠ざかってもなお見て取れるのが微笑ましい。
 二人の影が木々に隠され、完全に見えなくなったのを確認し、ムツミは空を仰いだ。朝早くに昇ったばかりの太陽が頭上にまで到達するには、今しばらくの時間が必要らしかった。
 
 蝉の鳴き声がようやく聞こえ始めた時節だった。目の覚めるような青空のもと、リノたちの住まう楠木山は青く茂った葉に彩られ、まぶしいほどである。
 そんな光景を眺める人物が二人いた。渋い色の旅装束姿で、双方目深に編み笠を被っている。僅かに覗く口元には髭が蓄えられており、それなりの年齢の男性であることが分かる。その衣装はやや薄汚れているものの、決して粗悪な品ではない。
 片割れがつっと手を伸ばし、顔を上げながら己の編み笠をずらした。やや釣り目で色白、整った髭が印象的だ。外見から察するに、五十に届くか届かないかといったところだ。
「……実章。暑くないか?」
「じきに山のなかに入れば暑さもしのげましょう」
 実章と呼ばれた男の声音はまるで宥めるかのようだった。声をかけた男よりも長身で、その肌は浅黒く、沢山の汗が浮かんでいる。ただでさえ気温が高いのに、山のような荷物を抱えているとあっては当然である。
「暑いのう」
「……水をご所望ですか?」
「いや、いい。……暑いな」
「…………少し休みましょうか」
「そこまで老いてないわ。しかしまあ暑――」
「何なのですか一体!!」
 律儀に逐一返答していた実章も、とうとう我慢の限界が来たらしい。重厚な低い声が一転して、怒鳴り声に切り替わる。しかし、対する男――時成は悪びれもせずにけろりとしている。
「ふむ。先ほどから、幾ら暑いと言っても其方(そち)は決して同意しようとせんからな。もしや暑くないのやもと」
「暑いですよ暑くないわけがないでしょうこれで満足にございますか?」
 実章は息継ぎもせず一気に言い募った。時成をじろりと睨みつける。
「まったく、暑いと口にしたところで陽射しが和らぐはずもなく、それどころかますます暑くなるだけではありませんか。だからなるべく考えないようにしていたと申すのに、御屋形様ときたら……」
 ブツブツと呪文のように低い声を垂れ流す実章。懐から手拭いを取り出し、ヤケクソ気味に顔に押し当てた。
 主君に対する苛立ちを隠そうともしない家臣に対し、時成は別段気にした風もなくからかった。
「むしろ休憩が必要なのは其方ではないのか? もう五十も半ばだというのに、少しは自覚せよ」
「結構です。かような炎天下のなかで無為に休息を取るよりは、一刻も早く木陰に辿り着きとうございます。……それに、御屋形様とてあちらで過ごす時間は少しでも長くありたいでしょう」
 ぜいぜいと荒い息づかいで付け足された台詞に、時成は視線だけで応じた。そう言われてしまっては無下にはできない。
「さすがに、こればかりは他の者に供をさせるわけにはいかんからな。私としては一人で来ても構わんのだが」
「断じて認めませぬ」
 即座に実章の渋い声が返る。ただでさえ忍び歩きの多い時成だ。毎度諌める立場の実章が、こともあろうにそれを助長するような真似をするはずがない。その頑なさを反映するように、彼の歩みは速度を増した。ずかずかと山道を進む広い背中を見据え、時成はわざとらしく嘆息する。
「全く、暑い日の外出はいかんな。実章の気が短くてかなわん」
「それはっ、……申し訳ございません」
 すぐさま反論しようとし、そのまま言葉を呑み込む。彼とて分かってはいるのだ。普段と違って二人きりだと、ついつい自重することができなくなる。……というより、こういうときまで自重していたら彼の身が持たない。
 そもそも、二人きりのときを狙って煽るような発言をしてくるのは時成の方ではないか。それを思い出し、実章は眉を寄せた。
「だいたい御屋形様は――」
「お。見よ、実章」
 軽く笠を持ち上げて前方を示す時成に、実章は勢いを削がれてしまう。何事かと顔を正面に戻し、道の先を見つめた。
「……あ」
「どうじゃ。会話をしながらだとあっという間であったであろう」
 主君の誇らしげな声が耳を撫でる。前方の人影は、彼ら二人が気づいたのをみとめると深々と頭を下げた。
 白髪の交じった長い髪を後ろでくくった、温和な顔つきをした女性――彼らにとってはよく見知った人物。ムツミであった。
 

《次》

 

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